【過去記事】発達障害の診断、自立支援医療。

生活保護が始まってからすぐ、派遣ではあったが仕事は見つかった。
体調はずっと悪いままだった。
 
働き始めて間もない日の晩。
突如喘息の発作が起こった。人生で初めてだった。
息も絶え絶えに119。救急搬送。
数日間の入院をすすめられたが断り帰宅。
またも療養生活が始まる。
派遣自体は続いたが、派遣先の判断で一旦契約を切ることに。
 
そこからというもの、喘息の症状が落ち着いても体も精神の状態も悪いままだった。
 
これから、ここからだという時に体調を崩したりする。またこれか。
仕事を探さねば。
 
頭痛がする。
 
吐き気がする。
 
外へ出る、職探しのことを考えるなどをすると、とたんに体調に異常をきたした。
昨年の暮、担当ケースワーカーから精神科に行くことを進言された。
これは、「病院へ行って求職活動を続けるのは困難なので療養に専念するのか、求職活動はしつつ通院するのか、医師に判断を仰げ」
という意味。
明確な理由がない限り、求職活動をやめてはいけないのです。
 
年末に予約の電話をし、年が明けて最初の営業日に初診を迎えることとなりました。
近年、精神科系の病院はどこも新規の予約が非常に難しいので、
これは相当な幸運だったと思う。
 
普段は緊張などしない私ですが、当日はかなり緊張したのを覚えています。病院の雰囲気がどうにも苦手で、さらには自分の弱さを曝け出さなければならない事、何を言われるのか、どう扱われるのか‥不安と緊張と、そして家の外に出ているという"圧"のようなものでいっぱいでした。
担当医の方の第一印象は、"あぁ、精神科っぽいなぁ"という感じでした。男性で、歳は恐らく三十代後半、落ち着いており、声は少し高め。眼鏡をかけたちょっとインテリっぽい、優しい雰囲気の方です。

生活リズムが壊滅的であること、外に出ようとしたり求職活動について考えると頭痛や動悸、腹痛や吐き気がすること、気分が激しく落ち込む事、そしてケースワーカーから受診をすすめられた事‥現状をありのままに話しました。
 
すると担当医は「まずは初対面なんで、少しあなたの事を教えてください」と、出身や家族構成と家庭環境、学校ではどう過ごしていたか、その後、仕事などはどうだったか。"少し"と言う割には結構細かく聞かれました。
話し終わると担当医は、過去、こういったミスはなかったか?こういうことで困らなかったか?など、的確に私の急所を突く質問を投げてきました。どれも大当たりです。
問題の根底には発達障害の傾向があるかも知れないので検査した方がいいとの事でした。

そもそも発達障害については自分でも疑っていたところもあったので、
あぁ、やっぱりか。といった感じです。
ただ、今の状態で検査をしても悪い方向に振れるだけなのでまずは生活リズムを整える事と精神的に安定させる方を優先しましょう。医師はそう言いました。
そうして、私に与えられた病名は鬱と睡眠障害
診断書を書いて頂き、私は求職活動をせず療養に専念することとなりました。
 
診察の結果をケースワーカーに伝えると、今度は自立支援医療 制度について医師に確認するよう言われます。
自立支援医療について詳しく書くとかなり長くなってしまうのでザックリ説明すると、
精神的な疾患を持っていて、継続的な治療が必要な人が利用できる制度の事です。
3割負担の医療費が1割負担まで軽減されます。
元々、生活保護で医療費を自分で払わない私には関係ないように思えますが、
生活保護自治体が、自立支援は国が負担、
要は、使える制度は全部使った上で生活保護を受けろって事です。
この制度についても医師から診断書を頂き(診断書代も自治体負担)、
晴れて?自立支援医療も適応となりました。

発達障害のテストを受けたのは初診日の翌月。
内容を細かく書いてはいけないようなので、ここもザックリ説明すると、
単語の意味の説明、出された言葉と言葉の共通点を説明したり、
この絵のおかしいところはどこでしょう?とか手本通りブロックを並び替えたり、
あとは単純な書き写しなど‥IQテストなのでそんな感じです。
 
九時半から十三時頃までの予定でしたが、結局三十分から一時間ほど延長しました。
終わった後の疲労感はとんでもなかったです。
脳の全機能を使ったような感じで、微熱があるような、頭が火照ったような、
そんな状態になりました。
ちなみに、このテストは自費で2500円です。
 
結果が出たのは一ヶ月後。
この間、発達障害だったらどうしよう?ハッタツショウガイってなに?
どうやって生きていくんだろう。発達障害じゃなかったらどうしよう?
ただのダメな人ってこと?これからどうやって生きていくんだろう。
これの繰り返しでした。
結果が出る前の週なんかは整いかけていた生活リズムも精神もボロボロでした。
 
結果としては、言語理解や処理速度は平均以上でしたが、
見た情報を記憶する能力、短期的な記憶、ワーキングメモリ‥要は記憶力が壊滅でした。
記憶力が悪い為、同時作業がダメ。何かに取り組んでいる時に話しかけられると内容が全く入ってこないなどの困難が発生します。他にも発達障害由来の"生活する上での困難"はたくさんありますが…
 
こうして、私は鬱、睡眠障害発達障害の三重苦で今も生きています。
これからは発達障害者向けの就活プログラムや、そういった機関を頼る方向で検討していますが、未だに鬱状態が続いている事、生活リズムが全く安定しない事、何より、先を急いではいけないという医師からの強い忠告の元、毎日家で自分と向き合いながら過ごしています。

【過去記事】急転落、ホームレス寸前から生活保護受給まで

逃げ回ってばかりの人生だった。
嫌な人、仕事、環境、色々なものから逃げた。
 
いつからか、睡眠のコントロールができず、
朝は起きれず、夜は眠れなくなっていた。
何度も遅刻をして、仕事をやめた。
人との会話が苦手で、答えや目的のない雑談が苦手で、思った事が口から出てしまう。
自ら輪に入っていくことも苦手で、人間関係を構築できず、
多少仲が良くなってもすぐに破綻した。
 
人も仕事もうまくいかなくなると、すぐにそれを捨てて新しい場所へと逃げ、
それを何度も繰り返した。
 
また、金銭の管理がとにかく苦手だ。
計算していた支出の計画など給料日の翌日には破綻していることがほとんどだった。
 
 
気づけばその日暮しになっていた。
 
昨年の夏の手前あたり、当時住んでいた家を急遽、
出なければならなくなり新しい住処を探すことになった。
お金などほとんどなく、身内を頼ることもできない私は、
賃貸で家を借りるなんて出来るはずもなく、保証人不要で寮付きの派遣を何とか探し出し、工場で働きはじめた。
本当は週払いが最低ラインのところを日払いにしてもらい、お金のない日々をなんとか凌いだ。

ここでなんとか生活を立て直し、頑張ろうと決意してから間もない、とある夏の日。
大阪を比較的大きな地震が襲った。
物流は滞り、工場は機能を停止、長期の休みに。
日払いのお金に頼っていた私には大きな打撃。
なんとか耐え凌ぎ1週間程。
工場の再稼働から間もなく、私は仕事中に熱中症でダウンし、救急搬送。
長い療養を余儀なくされた私に派遣会社の担当者から告げられたのは実質的解雇だった。
ある程度仕事はこなしていたが、遅刻や欠勤もあり、担当者的にも限界だったのだろう。
今週には寮を出て行ってくれと言われたように記憶している。
 
困った。
お金はない、頼る身内もない。
当時の派遣会社は、保証人も予めお金も必要なしで寮に入れて、日払いにも対応してくれる好条件の職場であり、探しに探してやっと見つかった職場だったのだ。
 
さぁ、ホームレスだ。
これからどうやって生きていこうか。
などとネットサーフィンをしていたところ、あるNPOのホームページに出会った。
ホームレスや、ホームレスになりそうな人などを支援している団体。
縋る思いで電話をし、大まかな状況を説明。
事情を聞くからと呼び出され、NPOの事務所に行ったのが翌日。
 
今週中に寮を出なければならないこと、
頼れる人がいないこと、
所持金やこれからどうしたいかを伝えた。
担当者からの提案は生活保護の申請と引き換えに、初期費用も保証人もいらない物件の紹介だった。

翌日に内見。
綺麗で家電もついていた。
さらにその翌日には正式な契約。
同時に、担当者と一緒に区役所へ。

生活保護の申請だ。
申請書もそうだが、生い立ちや現状について時系列を追って細かく聞かれる。正直、つらかった。
 
引っ越してから少しして、ケースワーカーが訪ねて来た。
改めて事情や生い立ちなどを話し、生活保護を受ける際の注意点などを話して、最後に間取りやその広さなどをチェックされた。
 
こうして、あっと言う間に新しい住処へ移ると同時に、生活保護受給者になった。
 
この家が最後のチャンス。
ここで立て直さなきゃ本当の本当に終わりだ。
何度目かの堅い決意を胸に、新しい生活が始まった。
 
だが、
この決意を砕かれるまで、それほど時間はかからなかった。

【過去記事】自己紹介。

自己紹介がてら生い立ちやらを。
 
生まれは関東か北海道と聞いてます。
物心ついた時には関東在住。
家庭環境は複雑で、自身でも血の繋がりがどうなっているのか確信ない。
 
母はあまり家におらず、何をしているかわからない人でした。
父は早朝から晩まで仕事をしている人でしたが、
感情の起伏が激しく、力や言葉の暴力がありました。
 
弟と妹がおりますが、歳が幾つ離れているのか、
誕生日がいつなのかすら分かりません。
覚えているのは当時の容姿と名前だけです。
当時の私は父の暴力の対象が弟と妹に行かぬよう、
故意に悪さをしたりして矢面に立っていたようなところがあります。
 
生活面ですが、両親があまり家に居ない代わりに机の上にはいつもお金が置いてありました。
それで弟妹、自分の食事を用意します。
夜中になると、母親が居ない不安感からか妹が泣き出し、
その声を聞いては目が覚め、寄り添って一緒に寝る。
弟とは付かず離れずでした。

こんな家族ですが外面は非常に良かった。
父が勤めていた会社主催の新年行事と夏の釣り堀でのバーベキュー、
このふたつが家族が揃って出かける数少ない機会だった。
この時はとても仲睦まじい家族に見えたことでしょう。
父の命令でもあったのですが、仲の良い家族を演出するのもまた、
私の役割の一つでした。
 
この環境に耐えられなくなった私は、ある日、大きなリュックと小さなキャリーバッグを引っ張って、僅かばかりの現金を握りしめて夜行バスで単身関西へと逃げ出します。
それが20歳頃の出来事です。
それからはアルバイトも住む所も転々とする日々でした。
そうやってダラダラと生きているうちに20代を終えてしまいました。
 
今では生活保護を受けながら精神科に通い
家事もままならない状態です。
 
医師の診断としては、
ADHDASD 、鬱、睡眠障害などなど‥
最近、手帳の申請が通り、手帳持ちとなりました。
 
先々の事を考えると希死念慮が疼きますが、
それでもなんとか毎日を生きています。