あれから。

めましてお久しぶりですこんにちは。

【過去記事】と入っているものは、

数年前にはてなブログで投稿していた記事の一部を持ってきたものです。

なんか色々かいてありますが一応載せておきます。

 

あれから数年が経ち、現状の説明だけ。

 

生活保護も、自立支援も変わることなく続いています。

何度か復帰を試みましたが悉く失敗に終わっています。

食事介助ためにヘルパーさんが週2回訪問してくるようになりました。

 

うつ病の症状はある程度落ち着き、就職活動中の身です。

療養生活開始から既に5年以上経過しており、

この長い長いブランクが就活を妨げ、状況は芳しくありません。

 

就活以外の活動というと、

データ分析の勉強をしつつ、Androidアプリの開発を勉強しています。

 

気分の浮き沈みや悲観的になったり、

正直、希死念慮も時々顔を覗かせますが、

以前の自分と比較してみると幾分マシになっているとは思います。多分。

 

なぜブログを再開したのかわからないけれど、

もしかしたら、きっと多分、また何か書き綴ることになるかも。

 

 

【過去記事】許可証を。

先日、ケースワーカーの家庭訪問があった。
短いものだったが、印象に残ったのは、
「仕事を探して欲しいとは全く思っていないので」
というケースワーカーの言葉だった。
 
怠惰に生きつつも、このままでいいのだろうかと
モヤモヤした気持ちで生きていた。
 
その言葉で思い出した。
発達障害であること、鬱であること。
 
そうか、休まなければならないのか。
まだ休まなければならない身なのか。
そう思いつつも、かと言って完全に納得できない自分もいる。
それは、それ自体が、自分に対する言い訳ではないのかという思いだ。
 
本当はどうかなんて、それも本当はどうでもいいのかも知れない。
 
事実かも知れないし、言い訳かも知れない。
でも、だったとしても、だからって何も変わらない。
 
完全な納得なんてきっと得られない。
曖昧に生きていくしかない。

【過去記事】大いなる矛盾

今の自分は過去の結果的存在であり、尚且つ未来に対する原因的な存在だ。
絶対的な矛盾を孕んでいながら、それはひとつであり、それは矛盾的自己同一という。
全く違う二極が全体でひとつになるのだ。
太極図がまさにそれを表している。
 
どうでもいい。
 
先々の事を見ない振りをしつつ生きている。
結果的存在と原因的存在を別のように書いた。
確かに別ではあるのだが、平たく言えば連続した自身という存在のワンシーンと捉えると繋がっても見えてくる。
 
過去の自分が起こした過ちを引き摺りながらその先にある物も見ず、かと言って今の現実を直視することもなく、それでも時間は過ぎ去って、またやってくる。
 
連続した単一の自分。
どこを輪切りにしてみても同じような光景ばかりだ。
 
何度決意をしても何度後悔しても変わらない景色の中に何か変化を齎すヒントはあるのか。

【過去記事】巣食うモノ、直視。

これだけの、悪いことをしてきたのだから、
その人は不幸になっても仕方がない。
 
あれだけの、つらい思いをしたのだから、
その人は幸せになるべきだ。
 
公平世界仮説だ。
どちらの言論も、
言われてみれば、まぁそうかな、と思えてくる。
 
では、つらく悲しい境遇の人が幾度も悪い事をしたら、どうだろうか。
 
 
これは、自分のことを言っているわけじゃない。
自分のところよりも酷い家庭で育った人間を知っているし、自分よりも悪いことを沢山してきた人間を知っている。
 
それでも自分は悪いことをしてきたし、騙すようなことをしたこともある。
今、不幸な境遇に立たされている人がこれを読んでいるのなら、その境遇は私のせいかもしれない。
 
 
ここのところの焦りは加速をしていて、それはとても漠然とした不安から来るものと思っていた。
でも、違うように思えてきた。
 
捨てられることがとにかく不安だったと気づいた。
社会的な何かや年齢、季節、他にも何かあるのかも知れないが。
 
気にしていない風だったそれは、実はとても大きかった。知らないうちに肥大化し、自分の心に巣食っていた。
 
何かできるようにならなければ、何か進展しなければ、自分はまた捨てられてしまうのではないか。
もしかしたら、もう、半ば呆れられているのではないか、もし手遅れの域まで達していたなら。
それなら今は、情か、惰性か、
 
過ぎ去ったと思っていたそれは、
確実にトラウマとなっていて、
言葉を受け流し、視界を霞ませた。
 
それらを否定できるのはいつでも曖昧なもので、
本当の私の立場はどこだ。

【過去記事】焦燥。

小学生の頃から仲良しの希死念慮と戦う日々。
これは生涯消えることがないんだろうなぁ、と。
普段から死にたい死にたいと思っている訳ではないが、ふとした瞬間、何か考え事の先、眠る前のぼんやりとした時間、様々なところからそいつはやってきて、あぁ、死ねば楽になれるのになぁと考えてしまう。
 
とにかく焦っている。
生活のリズムも少しではあるが安定してきている。
本来ならいい加減に職を探すなりなんなりせねばならないのだろうが、時々来る津波のような睡魔で半日以上眠ったり、薬を飲んでも全く眠れず朝になったりするような日があり、それが不安の種で足踏みしている。
また、精神も良くはなく、外出もシャワーもつらい。
 
結局、普通にはまだまだ程遠いのだ。
 
以前と比べて良くなったところなんてものは数えても意味がなく、常に今日、もしくは今なにかできるようにならなければいけないような気がしていて、滅入ってくる。
 
自分を追い詰めても責めても何も好転しないのだが、分かってはいても、気を紛らわすにはあまりにも長い一日々々の時間がそれを許さない。
 
窮屈で退屈で無意味に過ぎる日々と、決して特別でもないはずの、自分には無関係であるはずの、世間の年越しへと向かう加速感が焦りを生む。
 
焦ってはいけない、考えすぎてはいけない、きっと大丈夫。
今となっては誰の声とも分からないその無意味で虚しい響きが頭の中に静かにこだまする。
 
今、無力感に苛まれながら、ただ焦っている。

【過去記事】僕は超能力者じゃなかった。

小学生高学年くらいの時。
 
当時、そこそこ仲の良かったO君が、珍しく泣いていたらしく、犯人は僕だとかで先生に呼び出された。
女の先生で、体格は小柄、知的障害のある子供を2人だか育てて、それが原因なのかそれとも当時の教育の方針なのかは知らないけれど、道徳とか道徳心だとかってもんに凄くうるさい人で、例えばそれがゲームやマンガの話であっても殺すなんて事を口走ると、ヒステリックに怒るような先生だった。

明確な答えがなく、時と場合と場所と相手と自分と、その時々で答えがいくつもあって、どれが正解とも分からない道徳という授業や先生の講釈に僕は釈然とせず、あんまり好きじゃなかった。
未だに僕は、人を殺してはいけない理由を明確に語れないし、混み合う電車の中で優しさを発揮して老人に席を譲るべきか、はたまた年寄り扱いするのは失礼にあたるので、あえて席を譲らざるべきか、その答えを持たない。
 
どうやらO君は、僕のとある一言に傷ついて、放課後の教室で泣いていたらしい。
その言葉がなんだったかは覚えてない。
先生に事情を説明されたけど、僕はそんな事を言った覚えがなくて、さらに言えば、そんな言葉で泣くの?というような感想しか持てなかった。

先生に、とにかくO君に謝りなさい、と言われたけど、言った記憶もなけりゃそもそもそんな言葉で泣く意味もわからないし謝らないと僕は突っぱねた。
その反応が良くなかったらしく、小一時間くらいは説教された気がする。
 
O君がこんなに傷ついてるのに、あなたは人の気持ちがわからないの?
僕は人の気持ちがわかった事なんてただの一度もないし、僕の気持ちをわかってもらった事もない。
 
あんな事を言われたら自分がどう思うか想像してみなさい。
なんとも思わないし、僕が傷ついたとしてもそれは僕がどう思うかであって他の人がどう思うかは関係ない。
 
実に生意気なクソガキだ。
 
結局、僕はO君に謝らなかったんじゃないかな。
そこんとこもよく覚えてない。
 
その後の僕といえば、こんな面倒なことになるならと思ってクラスメイトとの距離を一気に離した。
それ以降、先生は何か理由をつけては僕を呼び出し説教した。僕を矯正しようとしたのか、それとも教師としての愛情なのかはわからない。
とりあえず、僕は先生の事を嫌いになった。
 
生意気エピソードは絶えない。
授業中、ノートに絵を描いてるのを先生に怒られ、廊下に立ってろと言われて、その授業が終わるまで廊下に出て絵の続きを描いてた。
授業が終わり先生が僕のところに来て、どんな気持ちで廊下にいたの?と聞かれて、まだ描き終えていない絵を見せながら、絵の続きが描けると思ったと言ったら、やっぱり説教された。
ある時は、多分それが4時間目とか5時間目だったのかな。とりあえず廊下に立たされ、最後の授業受けなくていいなら帰ろうと思いそのまま帰ったら、やっぱりめちゃくちゃ怒られた。
 
生意気なクソガキである。

僕は超能力者じゃないから、今でも人の気持ちは分からないし、自分の気持ちを分かってもらえる事もない。
人の気持ちが伝わってきた事もないし、人に気持ちを伝えられた事もない。
僕と会話をする人も、きっと、僕の気持ちは分からないし、僕の気持ちが伝わった事もないだろう。
今でこそ、そんな自分の考え方を相手に話すこともなくなったけど、人との関わりはその概念が常に中心にある。
会話をすれば考えを分かってもらえて、気持ちを伝えられるとか、もちろん実際にはそんなことは起こってないし、そうなるなんて信じてない。
昔の僕は、相手の心の中なんて分かりっこないし、想像は出来ても、結局それは自分の考えでしかないと色々なものを突っぱねてたけど、今はそんな事もしなくなった。
気持ちを伝える、気持ちを理解する、そういった、ある種の形式を演じられるようになった。
だから、世間的に言う"不用意な発言"とか"空気の読めない発言"なんてものは減ったと思う。
それが適応なのか諦めなのかは分からない。
 
今でも僕は、生意気なクソガキのままだ。

【過去記事】部屋と頭とコスモ。

見えないモノは無くなるし、見えるモノも無くなる。
我が家には至る所に小宇宙へと通じる穴があるのだろうか。
 
これが、私の"ダメすぎる記憶力"のせいなのかは不明だが、とにかく物がなくなるのだ。
数日前に使ったモノから、つい先程使っていたモノまで、ありとあらゆるものがどこかへと消えていき、幾許かの時間を経て私の手元に帰ってくる。
これが、複数個ある消しゴムの中のひとつならばさして気にもしないのだろうが、割と大切なモノまで消えていくから困っている。
中々片付かない我が家ではあるが、ゴミだらけでモノが無くなるなのは当然である環境かと言えば、そうでもない。
無くなるのはモノだけではない。コトも頭の中の小宇宙へと消えていく。
毎月しているはずの料金の支払いも、何かの予定も、自分で決めたことも。
現在は、お金やスケジュールに関して密に共有している人がいるため、なんとかなっている。
金銭面の管理が安泰かと言われれば、怪しいが。

いちばん疎かにしてはいけない予定とは、料金の支払いである。
元々、衝動性が強く、無意味に買い物をしたり、支払いを忘れたり、とにかくお金の管理が苦手だ。
入金されたお金を手に、アレやコレやと支払いの計算をする。幾ら出て幾ら残り、幾ら使えるのか。そしてそれを考え終わる頃には、その計算した内容が小宇宙へと消えてゆき、極めて無意味な出費をし、気づけば金銭的に死に体となっている。
現状では、ある方法で金銭の管理をしている。
封筒小分け作戦だ。
まず、家賃、光熱費、通信費など、毎月の固定出費をそれぞれ封筒に書き記し、そこにかかる必要な費用を入れておく。
次に、第1週目から5週目まで、1週間ごとの食費兼小遣いを分ける。
こうすれば残りは"余ったお金"になる。
これを、"予備袋"に入れておく。
最初は貯金袋にしようかとも思ったが、上記のようにお金を振り分けても中々管理が上手くいかず、貯金袋にあるお金に手をつけてしまう。その時の罪悪感たるや‥。
なので、そのつまらない罪悪感を少しでも減らすために"予備袋"と改名した。
こうして、お金の管理はなんとかなっている。
ただ、いつだったか、通信費袋にお金を入れ忘れており、恐ろしい思いをした。
毎月、各封筒にお金を入れて、何度も確認しているはずなのに入っていなかったのである。
なんと恐ろしい。
 
他にも、モノがなくならないように使用頻度の高いものやピルケースなどをまとめておける小さな箱を使用したり、予定は手帳とスケジュール管理アプリに入力したり、とにかく思いつく限りの工夫はしている。
それでもやっぱりモノは無くなるし、コトも無くなる。
普通の人への道のりは険しい。
書いていて死にたくなってきたのでここで終わり。